こんにちは!なこです。コラム第2回からは「敷物」について見ていこうと思います。
「日本の染織」というと、やはり前回扱ったゆかたのような「衣服」をイメージする方が多いのではないでしょうか。しかし、染織、その字の通りに染めたり、織ったりしたものは衣服だけに活用されてきたわけではありません。その一例として、今回から数回にわたって日本における「敷物」の変遷について追ってみましょう。
原初の敷物
では、早速順に時代を追って、日本の敷物の変遷を眺めてみることにしましょう。
狩猟採集が中心だった時代には、小枝を積み重ね、草を並べて敷いた上に座ったり寝たりしていたと考えられています。もしくは、毛皮類を敷くこともあったようです。最も原初的な「敷物」ですね。イメージ通りでしょうか?
その後縄文時代になると、織る・編むという技術が用いられていたと考えられています。そして弥生時代には、大陸人からもたらされた道具や文化によってより発展しました。ここで作られたのが薦(こも)や筵(むしろ)です。草や稲の栽培によって得られた藁などを用い、敷物や壁にしたようです。
こも
こもとは、湖や池に生息する葦に似た植物です。食用にもされていたほど、人々に馴染み深いものでした。そのため多くの人に広く使用されました。また奈良時代以降の貴族は畳の下敷きに用いたそうです。
この「こも」は、現在でも使われています。害虫駆除のため(?)に木の幹に巻かれていたり、冬場に雪から木々を守るために巻かれていたりするアレは、こもです。きっと皆さんも見たことあることでしょう。これを、昔は上に人が座るためのものとして使っていたそうです。
むしろ
むしろには様々な種類があり、それぞれに特徴があります。(〇〇むしろ、というようにむしろの中にたくさん種類があります。)「こも」もむしろの一種として、「こもむしろ」と言うこともあります。藁などで編んだもの全般をむしろと呼んでいるようです。歌に詠まれて記録に残っているものも多くあります。
むしろは、こもにとてもよく似ていますが、材料に植物だけでなく絹や麻を用いることがありました。用途としては、座るためだけでなく寝具としても用いられました。また、農家では藁むしろを袋として使用し、「ござ」と呼ぶこともあったそうです。
小括
今回は、古代には主に植物を用いた敷物が主流だったことを見てきました。また、縄文時代にはすでに「織る・編む」という技術があったことも重要です。(そういえば国立歴史民俗博物館には、それをあらわす、織物をしている埴輪があります。)
次回は仏教伝来以降の敷物を見ていきます。
では、またお会いしましょう!
*参考文献
・岡崎喜熊『敷物の文化史』学生舎、1981