はじめに
今回インタビューさせていただいたのは、福井県河和田地区にある漆塗り工房の「錦古里漆器店」です。重箱やお膳といった角物を中心として漆塗りを行っている越前漆器の工房、ご兄弟でお店を経営されているということですが、今回は弟様にお話を伺って参りました。
錦古里漆器店
錦古里漆器店の店内は一風変わった作りになっています。実は、デザイン事務所のTSUGI、観光案内所Craft Invitation、レンタルサイクルのURUSHI BIKE、福井の魅力あふれる商品を集めたSAVA STORE、そして錦古里漆器店と五つの複合施設が一体化した建物となっています。店内に入ってみると、綺麗に陳列された漆塗りのコップにお弁当箱など。優しい電灯の明かりに照らされてピカピカ輝いていました。それだけでなく、レンタルサイクルのバイクや衣料品も店頭に並んでおり、複合施設らしい独特の空間が広がっていました。また、漆塗り体験のできるブースも広がっており、お客様が直に職人さんの手仕事が見られるという珍しいつくりとなっていました。
錦古里漆器店の特徴的な経営方法として、複合施設の一部という点があると思います。この形態になる前は、店内は完全に職人さんやお弟子さんの仕事スペースとして活用されていたそうです。しかし、お弟子さんが独立したり、兄の錦古里正孝さんも年齢的に以前のようには仕事ができなくなったということで、全面改装して、体験教室を開いてお客さんに教えるという今の形態へと自然と移っていったということでした。今の形態について、お聞きしたところ、職人としては、大変集中力が必要な仕事であるので、人がいることで仕事がやりづらくなったとの率直な意見がありました。しかし、観光客の方々に自分たちの仕事をみてもらうことで、漆塗りが人々にとって分かりやすくなったというメリットがあるようです。確かに、職人さんが漆を塗っている仕事風景というのはなかなか見られる機会がないので、大変面白いと感じました。
後継者について
お椀といった生活の一部となる器の漆塗りを手掛けている職人さんは河和田地域にもまだ5~6人いるそうですが、錦古里さんのように、角物を中心として漆塗りを手掛けている職人さんは、あと数人しかいないそうです。伝統工芸の世界で問題とされる後継者不足ですが、こちらでも以前はお弟子さんが何人かいたそうですが、仕事の注文が減少していく中で、お弟子さんが自ら辞めていったようでした。職人として一人で生きていくならまだしも、家族を養うとなると、どうしても稼ぎが少なく、自然とそういう流れになっていったようでした。やはり、お膳といった角物は、その昔は生活に欠かせない物でしたが、今はあまり一般的ではありません。その流れが顕著に現れて、後継者の必然的減少に繋がっていったそうです。
輪島に少しでも近づけようという努力が実った
河和田地区の越前漆器の技法は全て輪島塗りの職人さんから習ったそうです。越前漆器の立ち位置は、「輪島より安くて、丈夫さも輪島ほどではない。」そこからのスタートだったそうです。この産地でも「やるべき工程をしっかりやってなんぼ」というのが主流であったそうですが、錦古里さんは「こんなんでは、この産地がダメになる」と感じ、少しでも輪島の品質に近づけようと努力した結果、どんどん注文が来るようになったそうです。しかし現在は、また状況は変化しており、木製漆塗り100%の産地だった河和田地区も、プラスチック8割の産地へと変わっているようです。漆器産地からプラスチック消費産地へ。河和田地区はまだ変化の真っ只中にいるようでした。
日常遣いのお椀は残りやすいが、角物は厳しいというのが現状
今後の越前漆器は、20〜30代の女性の弟子が十数人いるので、その方々が中心となって産地を継いで行くことになるということでした。アクセサリーを作ったりと、全く新しい視点のものづくりがその方々に担われているようです。また、お椀や日常遣いの食器を扱っている漆塗りの工房は今後も残っていくということでした。つまり、「漆」という視点からみると将来性はまだまだあり、樹脂のお椀に漆を塗ったり、旅館の案内板に拭き漆を施したりと色々な活用方法があるようです。しかし、錦古里さんの手掛けているような漆器、木製の木地に漆を塗った器、角物といったものを残していくのは厳しいという現実があるようです。今も、ほとんどの漆器を東京の漆器問屋に卸しているそうですが、その理由は、東京で角物を中心に手掛けている職人さんがゼロになったことで、河和田地区に注文が来るようになったという経緯があったからだそうです。角物の漆器職人が全国的に減少しており、角物で漆器を再興させようとするのは難しいため、日常遣いのお椀やカップからこの産地をまた盛り上げようというのが越前漆器全体としての現状だということでした。
問屋問題は自然と解消された
お兄様がその昔問屋で働いていた過去があるという錦古里さん。その流れから、現在の問屋を介した商法が問題視されている現状についてお聞きしたところ、その問題は自然と解消されていっているとのことでした。東京の有名な問屋さんがどんどん辞めていっており、それにより、業者が直接東京の料理店などに商品を売りに出す体制へと自然と変化していったそうです。4、50年前までは、業者が問屋を解さずに直接料理店に商品を売り出すのはタブーだったそうで、河和田地区でもその掟を破った人が、東京の問屋から締め出しにあった過去もあったようです。しかし今、東京の問屋にはそこまでの権力や結束力はないそうです。課題があるから、問屋を介さなくなったのではなく、昔の体制では成り立たなくなったため、今のような直接料理屋さんと取引するという形態に自然となっていったということでした。
錦古里さんの想い〜若者が漆のよさに気づくかが重要〜
錦古里さん曰く、結局私たち若者が漆のお箸を使って、漆はやっぱり違うなと気づくかどうかが問題だということです。錦古里さん自身も、自分で漆塗りのお箸を作って、実際に使って見たときに衝撃を受けたそうです。口の中でのお箸の滑り、口の中からお箸が抜ける感覚が普通のお箸とは全く違った。そういった違いを見たり、感じたりして「いいな」と思う感覚を若者の私たちが養うことができれば、漆産業の先は明るい。そう仰っていました。ただ漆について知るだけではなく、実際に使ってみて、良さを体感すること、それでしかない。それが一番大事だということでした。
毎日、畳の間で漆塗りのお膳で朝昼晩、ご飯を食べているという錦古里さん。漆塗りのお膳には、ガラスのコップを置いても、陶器を置いても音がいいそうです。プラスチックのお膳になると「パンッパンッ」と音がしますが、漆塗りだと「ポコン、ポコン」と心地いい響きがあるそうです。「現在漆塗りは人々にとって必需品ではないけれども、“いいな”と思って使ってもらえる人を掘り起こしていくしかない。」そう話す錦古里さんの話し方から、その切実で、かつ熱い想いがひしひしと伝わってきました。
おわりに
錦古里さんのお話を聞いて、やはり錦古里さんの手掛けているようなお膳や重箱といった角物は、今の時代に残していくことは本当に厳しいという現状が伝わってきました。しかし、今のこの河和田地区の産地が残っているのは、錦古里さんが、この産地の現状をしっかりと把握して、輪島の品質に少しでも近づけようと努力した結果なのだと思います。その技術や努力は、角物からお椀やカップへと変化していったとしても、決して失われない財産としてこの産地に引き継がれていくのだろうと感じました。
私は、お話を聞く前は、漆の産業が下火になっている理由は、漆の職人さんが時代に合うものを作れていないからだと考えていた節がありました。しかし、問題は我々若者にもあるということに改めて気付かされました。漆を使う私たちの側が、漆の良さや価値に気づけなくなっている。その現状を無視してはいけない、その現状をきちんと把握して、現代を生きる我々が漆や漆器といった本当に「いいもの」に触れる機会を増やしていく必要があるのだと思います。
最後に、錦古里さんのご友人の中に、東京で蒔絵教室を開いている方がいらっしゃるそうで、生徒数はなんと1000人を超えているそうです。蒔絵は漆器と深い関係があります。その教室がきっかけとなって、漆に興味を持ってくれる人がいるそうです。蒔絵という古い伝統技法にここまでの生徒さんが集まっているという話を聞いて、まだまだ漆も工芸も先はある。みんな触れる機会がなかっただけで、実際に触れてみれば、その良さに気づかずにはいられないのだろうと感じました。私自身も、今回の遠方取材で漆に触れ、完全に魅了された一人です。気づけば、漆の器を一つ、家に持って帰っていました。確かに、漆は管理に手間がかかります。しかし、手間がかかるからこそ、大事にしたいと思うし、使えば使うほどに、愛着が湧いてきて、心の拠り所になる。そんな気がします。私のような若者が増えることを願って、この記事を執筆させていただきました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
執筆者:中村ひかる
とらくらとは?
「工芸の魅力を世界と若者に伝える」をvisionに掲げて活動するインカレ学生団体です。日本の伝統文化や工芸に興味がある全国の学生が集まり、「取材」を通して若者の目線からその魅力を発信しています。伝統工芸のwebメディアへの記事執筆やSNSでの発信、また他の学生団体とのコラボイベントも行います。