上野は江戸時代から現代にかけ歴史ある街です。江戸時代から花見の名所として庶民に親しまれた上野、上野から幕末・明治維新の時代に思いを馳せてみませんか?
今回はその中でも幕末に上野で起こった闘争の上野戦争についてお話をしたいと思います。
上野戦争について
上野戦争は戊辰戦争の中慶応4年5月15日に彰義隊と薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍が対立したことによって起こった戦闘です。武装解除に応じない彰義隊に対し武力での制圧を新政府軍は決断しました。薩摩藩士海江田信義は彰義隊らを制圧するのに2万の兵が必要だと主張、長州藩士大村益次郎は現在ある兵(約1万)で十分だと主張し、大村の意見が通り慶応5年5月15日に江戸中に宣戦布告をしました。これを受け彰義隊の人数は全盛期の3000人から脱退者が相次ぎ1000人ほどに減少してしまったという。5月15日の午前8時頃、戦闘が開始しました。新政府軍が新兵器の扱いに戸惑ったこともあり彰義隊とお互いに拮抗した状態が続きます。そこに、佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲の導入により新政府軍は次第に優勢となり、西郷隆盛率いる薩摩藩が激戦地黒門を突破したことにより彰義隊は敗走しました。
新政府軍の圧倒的な数と最新鋭の武器により彰義隊はたったの1日で敗れてしまい、上野はあたり一面焼け野原になったそうです。
上野戦争の激戦区となった黒門は現在も現存しており上野公園にて見ることができます。当時の弾痕が残っており戦いの熾烈さを感じさせます。
大村益次郎の作戦
今回の戦は兵の数からしても勝ち戦が確実ではなく海江田信義を始め多くの人から反対意見が上がりました。2万の兵とは言わずともせめて夜襲のほうが…という意見が多かったそうです。一説では彰義隊が江戸中に火を放つ可能性があったため夜襲は控えたという説も残ってはいますが大村は彰義隊を見事な戦術で破りました。
まず、宣戦布告をすることで江戸中にいる彰義隊を本拠地のある寛永寺に集め一気に潰すことができるようにしました。また、宣戦布告することで庶民なども加入していた彰義隊の中で戦を恐れた人が逃げ型の数が少なくなりました。
敵を三方向から囲み追い詰め、一方向に逃げ道を用意するという戦術としては基本的な方法を新政府軍は取りました。
あれ、四方向から囲まないとにげてしまうのでは?と思った方!!!
実は四方から攻めると逃げることもできず追い詰められた相手はなりふり構わず戦うため帰って苦戦してしまうのです。いわゆる火事場の馬鹿力というやつです笑
もちろん逃げ道の先にも兵を配置し、逃げた兵も徹底的に捕縛・捕殺しました。
逃げた兵は戦意喪失している上、数もすくないため僅かな兵力でも対抗できます。
また、大村は佐賀藩が所有するアームストロング砲を不忍池を挟んだ本郷台に配置し、寛永寺に集っている彰義隊に向け集中的に放つことで彰義隊の布陣を崩しました。
黒門から寛永寺の奥へと押された彰義隊のもとに奥に待機していた新政府軍が加勢し彰義隊の陣を崩しました。
これらの作戦により彰義隊は追い詰められ上野戦争は幕を閉じました。
大村益次郎の作戦により死亡者は新政府軍が約100人・彰義隊が約200人と少ない被害かつ半日で上の戦勝を終わらせました。
驚くことに彰義隊の退路や決着がつく時間など殆どが大村の予想通りだったそうです。
まさに天才軍師ですね笑
最後に
今や一つの観光地となって毎日多くの人で賑わっている上野公園でこのような激しい戦争が起こっていたとはなんだか想像しづらいですね。
皆さんの身近な地域にも日本の歴史・文化が潜んでいるかもしれません。
新しい街の一面覗いてみませんか?