上野戦争で登場する彰義隊。あまり有名ではないので知らない方も多いと思います。
歴史の流れに抗った彼らの思いを覗いてみてください。
彰義隊について
彰義隊は幕末、王政復古の大号令を得明治自信政府を樹立した新政府軍と旧幕府軍が対立した戊辰戦争の際に結成された部隊です。鳥羽・伏見の戦いの後、徳川家最後の将軍徳川慶喜は新政府軍に恭順の意を示すため上野にある天台宗 上野寛永寺にこもりました。(天台宗 上野寛永寺は現在もあるので上野に行かれた際は参拝してみてください(^^))将軍は新財布軍に対し降参の意を示すもその家臣たちは納得できませんでした。納得のできなかった幕臣が有志で募り大義を彰かにするという意思のもと彰義隊を結成しました。幕臣だけでなく町民なども噂を聞きつけ集まりその最終的に人数は4000ほどまでになったそうです。
江戸城無血開城の後徳川慶喜は水戸に移ったが彰義隊は寛永寺を拠点に江戸の守備を続けました。その後内部分裂などは起こりますが彰義隊は寛永寺を拠点とし新政府軍への暴動を繰り返し、目に余る彼らの行動に幕臣の重鎮に彰義隊を解散するよう説得させますが彰義隊はそれにも応じませんでした。新政府軍を陸軍の基礎を作ったと言われる大村益次郎が指揮しついに上野で彰義隊と新政府軍は衝突し上野戦争が勃発しました。
彰義隊は抵抗しましたが新政府軍が導入したアームストロング砲の威力もありわずか半日で破れてしまいます。
この戦いによる彰義隊の死亡者数は約200名。しかし、彰義隊は反逆者という扱い出会ったためその死体は野ざらしにされたままでしたが南千住円通寺の住職仏磨らにより荼毘されました。
そして、明治7年に新政府からの許可が降りこの地に彰義隊の墓を建てることができました。
手前にある少墓石は明治2年に寛永寺の子院である寒松院・ 護国院の住職により埋納したものであり、奥にある大墓石は明治14年に元彰義隊小川興郷らにより建てられました。彰義隊の文字はありませんが江戸城無血開城の際一役買った山岡鉄舟によって書かれた「戦死之墓」という字を見ることができます。
※荼毘:遺体を火葬して弔うことを表す仏教用語
最後に
幕臣の新政府軍に対する不満や絵の幕府が対抗なしに権利を譲渡してしまったことへのやるせなさが彰義隊の話をたどると伺えます。
時代の波に必死に抗った彼らが眠るお墓がひっそりと上野に佇んでいます。ぜひ上野を訪れた際は明治維新の時代に思いを馳せてみてください。